先月23日は「勤労感謝の日」でした。私などは休日のひとつくらいにしか感じていませんが、祝日法には「勤労を尊び、生産を祝い、国民互いに感謝し合う日」と制定されているとのこと。また、日本国憲法27条には「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」とあります。この“義務”の解釈は学者によって異なるところもあるものの、一般的には働くことで暮らしを営み、社会に尽くす義務というものと解されることが多いようです。今を去ること50年前、私がまだ小学校低学年だった頃「モーレツ」という言葉が流行していました。高度経済成長の最中、多くの日本人が敗戦から立ち直り、文字通りモーレツに働いていたことに端を発した言葉ではありますが、石油会社が女性モデルを使って煽情的な広告戦略を展開したのが最たる要因と思います。閑話休題、いずれにしても今にして思えば当時の日本人は明日への希望に満ち溢れ、勢いづいて仕事をこなしていたのだと思います。それは、1980年代の世界に冠たる経済大国ニッポンを自認するほどまでになったバブル期まで続き、やがて終焉を迎えることになります。
すべからくフラッティングしていく。
様々なことは平準化していく傾向があります。それは情報量の多い世の中ほど加速して平準化していく傾向が強いように感じますが、人間という生き物が“ラク”と感じる方向でマネをしやすいものは、滑らかに取り入れられがちです。日本が経済大国と言われるようになると欧米からは「日本人は働きすぎ」とみられるようになりました。そして当の日本人も、どこの国には仕事中に昼寝をする習慣があるとか、長期間の休みであるバカンスがあることを羨ましい―私たちもそうありたい―と感じるようになっていったように感じます。ミクロ経済学の中でも労働供給者(=消費者)の労働選好として、賃金率が高くなるに従って労働時間が増えますが、その賃金率が一定水準を超えると余暇を選択するというものがあります。現在の日本の賃金率は、他の先進国と比較して高いとは言えない水準になってしまいましたが、先が不透明なことによる意欲の減退なのか、働くということは生活の糧を得る手段であって、楽しいものではない―ある一定の年齢でリタイアしたら働かずに悠々自適に暮らしたいという願望を持つのが当たり前のような空気になっているような気がします。一方では、2年前に言われた「2000万円問題」から老後の生活資金不足への不安も懸念されており、一国全体としては心理的にバランスを欠いた状態である気がします。
FIRE
そうした中で「FIRE」と言われる人たちが増えているとテレビで放送していました。FIREとは「Financial Independence, RetireEarly」の略で、「経済的自立と早期リタイア」によって自分の時間を過ごせるようにする生活スタイルを意味するのだそうです。テレビでは30才台半ばの男性が公務員を退職し、株や債券、不動産を合わせた約6千万円相当の資産を元手に運用しながら、いわゆる仕事はせずに生活している様子が映し出されていました。
是か非か?
このような暮らし方の是非は簡単に独善的に判断できるものではないのは事実です。但し、極論として国民のすべてがFIREになってしまうと国際競争で勝ち抜けないことは確かだと思います。また一方では、どのような稼ぎ方であれ、収入があって納税していれば国民の義務は果たしているわけですから、FIRE本人にしてみれば非難されるいわれはないところでもあります。
45歳定年論争
某会社の社長が「45歳定年」を提唱しました。経営者がこのようなことを言うと「体(テイ)のいいリストラ策だ」との批判の声が上がりましたが、ある大学教授も2012年に「45歳定年」案を出しています。この教授は、技術革新もあり一つの会社で働き続けることの難しさを提唱の背景としていますが、同時に長く働くためには人生のどこかで小休止して次のキャリアに向けた学び直しが必要と記しています。私は39歳で某企業を退職しました。後先も考えず、何かを見つけたいような気分で会社を辞め、勉強ばかりしていた時期がありました。が、そうした生活をしていると社会から取り残されたような気分になり、経済的な部分とはまた別に“働くことで社会の一員としての自分を実感したい”という想いに駆られました。兎にも角にも、公助は一定数以上の自助者無くして成立しないことは明らかだと思います。